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ネルソン提督

イギリス軍の英雄と言えば、多くの人が歴史上でおそらく最も偉大な海軍の兵士であるホレイショ・ネルソンを思い浮かべるでしょう。彼は数々の有名な戦いに勝利し、戦闘で片目と片腕を失いました。ネルソンの有名な言葉(誤って引用されたものですが)の一つに、コペンハーゲンの海戦で撤退を命じられ、見えない方の目に望遠鏡をあてて言った「船は見えません」があります。この言葉から、見て見ぬふりをするという意味の “turning a blind eye”という諺が生まれました。

ロンドンを訪れたことがある人または写真を見たことがある人は、トラファルガー広場の真ん中にあり、てっぺんにネルソンの像が立っている、高さ169フィート3インチ(51.6メートル)の柱、“ネルソン記念柱”を見たことがあると思います。イギリスやイギリスの元植民地には、カナダのモントリオールにある記念柱をはじめ、他にもたくさんのネルソンの記念碑があります。

ネルソンは1758年にイギリスのノーフォークで11人中6番目の子供として産まれました。12歳までグラマースクールに通い、1771年1月1日に叔父モーリス・サックリング大佐の船に三等水兵として乗船し、まもなく見習士官に昇進しました。当時、これは海軍の艦艇に乗るための通常の道のりでした。船の扱い方と船上での生活をあらゆることをじかに体験できるよう少年たちは幼いころから船に乗りました。そして18歳までには、人生を海で過ごした百戦錬磨のタフな水兵を統制できるようになるのでした。

1773年、大西洋を2回渡った後、ネルソンは北極探検の噂を聞き、叔父に相談しました。そして指揮官ラトウィッジの舵手としてカーカス号に乗船しました。遠征では太平洋への“北西航路”は発見できませんでしたが、氷で身動きが取れずにいる間、ネルソンと友人は白くまを見つけ、船から飛び出しそれを追いかけました。

1777年、様々な船に乗った後、ネルソンは海尉昇進試験に合格しました。そしてジャマイカに向かっていたローストフト号のウィリアム・ロッカー大佐の下で任務につくよう命じられました。アメリカの独立戦争の間、ローストフト号は複数の“戦利品”(拿捕船)を獲得しました。その中にあったのが“テンダー”と“リトル・ルーシー”で、ネルソンはそれら2船の指揮権を要求し自分の船としました。その後まもなくフランスが参戦すると、ネルソンは“ブリッグ”(高速で操縦しやすい2本マストの帆船)バッジャー号の指揮官に昇進しました。戦いのあいだ、ネルソンは他の複数の船を指揮し、マラリアにかかりながらも、勅任艦長に昇進しました。

1783年に戦争が終わると、ネルソンは結婚し、乗艦のない半給の艦長としてイギリスに戻り、次の乗艦を待ちながら努力を続けました。

1792年にフランス革命戦争が勃発し、ネルソンは64門艦アガメムノンの指揮を命じられ、地中海に向かいました。コルシカ島での戦闘で、ネルソンは大砲を陸へ降ろし、カルヴィへ砲撃を開始しました。ある日の早朝、銃弾が土嚢に当たり破片がネルソンの右目に命中。傷を手当てしましたが、右目の視力は次第に失われ、ついには完全に見えなくなってしまいました。

地中海での戦いは続き、サン・ビセンテの戦いなどネルソンは多くの勝利を収めました。帰国後、ネルソンは“バス伯爵士”(勲爵士団)を授与され、“青色艦隊の少将”に昇進しました。(当時、海軍の大佐以上の階級は年功序列制でした。将官は青、白、赤の順に、そして少将、中将、大将の順にランク分けされていました。例えば、赤色艦隊の少将は次に青色艦隊の中将に昇進します。)

ネルソンの次の大きな戦いはサンタ・クルス・デ・テネリフェの戦い(1797年)でした。上陸作戦でネルソンは右腕を撃たれ、骨が砕けました。船に運び戻されると、ネルソンは軍医に「切断は早ければ早いほどよい」と言い、それを聞いて軍医は腕の大部分を切断しました。その30分後には、ネルソンは再び部下の艦長らに命令を送っていました。イギリスに帰国したネルソンは英雄として大歓迎を受けました。

しばらくケガの療養をしたのち、ネルソンはすぐに新たな任務を命じられました。1798年、フランスの活動を偵察するために再び地中海に向かいました。一方、フランスはナポレオンの指揮の下、大規模な侵攻艦隊を編成しエジプトに向かっていました。ネルソンはアレクサンドリアでついに艦隊を発見し、壊滅的な打撃を与えました。これによりナポレオンは孤立し、エジプトに取り残されることになりました。このナイルの海戦での勝利はイギリスのみでなく世界中で称賛され、ネルソンはロシアのツァーリから贈り物を与えられ、オスマン帝国のスルタンからもその栄誉を称えられました。

戦いの後、ネルソンはナポリに向かい、そこで駐ナポリのイギリス大使であるウィリアム・ハミルトン卿の妻(そして後にネルソンの娘ホレイシャを出産する)エマ・ハミルトン夫人と恋に落ちました。その後3人は堂々とロンドンで一緒に暮らしました。

ロンドンでネルソンは男爵の称号を与えられました。

やがてネルソンはイギリスに戻り、青色艦隊の中将に昇進しました。次にネルソンが派遣されたのはバルト海でした。バルト海では、ロシア、プロイセン、デンマーク、スウェーデンの政府がイギリスのフランスに対する貿易封鎖に抵抗していました。ネルソンはコペンハーゲンの海戦(1801年)でデンマーク艦隊を撃破し、前述の有名な言葉を残し、武装中立同盟を解消させました。そして、帰国後、子爵の称号を得ました。

1801年10月、イギリスとフランスは平和条約を結び、ネルソンはハミルトン夫妻とともにイングランドとウェールズを周遊しました。

1803年5月、再び戦争が勃発し、ネルソンは地中海艦隊の司令長官に任命され、旗船として軍艦ビクトリー号を与えられました。そして、その戦争中に白色艦隊の中将に昇進しました。フランス艦隊は大西洋に逃げ込み、西インド諸島に向かいました。そしてヨーロッパに戻る前に島々を巡りましたが、そのあいだもずっとネルソンに追われていたのです。

ロンドンに戻ると、ネルソンはフランスとスペインが手を結びカディスに停泊していることを聞き、直ちに出帆しました。敵の艦隊の司令官はヴィルヌーブ艦長で、33隻(強力な大砲を備えた重装備の軍艦)が艦列を成していました。ネルソンの艦隊は27隻でしたが、彼は勝利を確信していました。1805年10月20日、連合艦隊がカディスを出発。翌朝4時、ネルソンは敵の艦隊が迫ってくる方向にビクトリー号の向きを変え、そして自分の艦隊に「イギリスは各員がその義務を全うすることを期待する」と旗信号を送り、続いて「白兵突撃」を命じました。

2つの艦隊はトラファルガー岬のちょうど西、大西洋のスペイン南西沖で対戦しました。

艦隊の従来の戦法は、敵と味方が向かい合って艦列を組み“艦砲射撃”を行うものでした。しかし、ネルソンの作戦は2列縦隊を組み、そのまま敵の艦列に突撃し、数か所に切り込むものでした。ビクトリー号を先頭とした艦隊は激しい砲撃を受けながら突き進み、敵の艦列に切り込みフランスの旗船ブチェンタウロ号に射撃を開始しました。すると今度は他のフランス軍艦2隻の砲撃を浴びました。

当時、狙撃兵はリギングによじ登り、敵の軍艦に向かって射撃を行い、視界に入る水兵を手当たり次第に狙いました。コートから勲章をはずすことを拒んでいたネルソンは、ちょうど1時過ぎにルドゥタブル号の狙撃兵によって50フィート(15メートル)の距離から撃たれました。船室に運ばれたネルソンは、軍医に「君ができることは何もない。私はもう長くない。弾が背中を貫通している」と告げたのです。

2時半に、ネルソンの副司令官を長く務めたトマス・ハーディ艦長が、敵艦が降伏を申し出ていることを報告しに来ました。ネルソンは自分の遺品をエマに渡すようハーディに頼みました。その後、あの有名な言葉、「ハーディ、キスをしてくれ」と言いました。ハーディはネルソンの頬と額にキスをしました。4時半にネルソンは息を引き取りました。しかしネルソンの艦隊は大勝利を収めました。フランス・スペイン連合艦隊が22隻の軍艦を失ったのに対し、イギリスは1隻の軍艦も失いませんでした。

ブランデーで満たされた棺でネルソンの遺体が戻ると、イギリスは悲しみに打ちひしがれ、通常は国王のみに行われる“国葬”が行われました。式には32人の将校と100人を超える海尉、そして10,000人の水兵が出席しました。ネルソンはセント・ポール大聖堂に葬られました。

ネルソン提督は戦術と戦略の達人でした。彼は、勇気と献身、カリスマ性によって部下から慕われた偉大なリーダーでした。もちろん、ネルソンにも欠点や虚栄心がありましたし、物議を醸したこともありました(エマ・ハミルトンは国葬に参列することは許されず、以後、政府は彼女に見向きもしませんでした)。しかし、それでもやはりネルソンは生前人々に慕われ、死後もなお深く尊敬されたイギリスで最も偉大な英雄の一人です。ネルソンのような人物はもう2度と現れないでしょう。